ラインストーンを身にまとったカントリー・ミュージックの女王、ドリー・パートン(Dolly Parton)が80歳で亡くなり、世界は最も愛されたアイコンの1人を失いました。
彼女の死は、現地時間8月25日の火曜日に甥のブライアン・シーバー(Bryan Seaver)がインスタグラムに投稿した感動的なビデオメッセージで発表されました。彼は「この瞬間の重みを想像していましたが、今初めてそれを実感しました。」と語りました。
20年間ドリーの警備責任者を務めたブライアンは、「光栄なことです。この上ない誇りと深い悲しみが入り混じった光栄です。しかし、悲しみは私たちのものであり、ドリーのものではありません。」と付け加えました。
彼女のチームは後に、彼女が「短い闘病生活」の末、「安らかに」亡くなったこと、そしてナッシュビルのヴァンダービルト・イングラムがんセンター(Vanderbilt-Ingram Cancer Center)で「愛する人々に囲まれて」息を引き取ったことを確認しました。
歌声、機知、そしてプラチナブロンドの髪で、史上最も愛されたエンターテイナーの1人となったドリーは、60年にわたるキャリアの中で、世界中で1億枚以上のアルバムを売り上げ、3000曲以上の楽曲を作曲しました。
彼女の死は、昨年夫のカール・ディーン(Carl Dean)を亡くして以来、体調不良に苦しんでいることをファンに明かしてからわずか4日後のことでした。
「カールのお世話をしていたときに気付かなかった健康上の問題がいくつかあるんです。」と彼女は言いました。
「実は、こういうことをするのは初めてではないんです。80年代初頭には、婦人科系の病気で数ヶ月間寝込んでいました。当時は体重にも悩んでいたので、健康面で辛い時期を経験していないわけではありません。」
「回復途中だけど、仕事は続けています! ご存知の通り、私は夢を追いすぎて行き詰まってしまったけれど、まだ達成したいことがたくさんあるから、すべてが実現するまで、できる限り働き続けるつもりよ」と付け加えました。
昨年9月、ドリーは「健康上の問題」を理由にラスベガスでの定期公演を延期しました。ブライアンは、叔母は今「イエスの腕の中にいる」と述べ、「きっとカールや両親、そして彼女を見守り、天国で再会を待ち望んでいた数えきれない人々が彼女を迎えてくれるだろう。」と付け加えました。
ドリーは1946年1月にテネシー州で生まれました。12人兄弟の4番目で、姉のフリーダ(Freida)も歌手です。父親のロバート・リー・パートン(Robert Lee Parton)はタバコ農家で、一家は川岸にある寝室1つの小屋に住んでいました。
「私たちは貧しかったけれど、貧しいと感じたことは一度もありませんでした。」とドリーは後に語りました。「食べるものにも、住む家にも、着る服にも困りませんでした。理想通りの生活ではなかったけれど、父と母はいつも、私たちよりずっと苦しい思いをしている家族がいることを指摘していました。」
彼女は6歳のときに祖父が牧師を務める教会で歌い始め、音楽の道を歩み始め、10歳で地元のテレビ番組に出演するようになりました。
音楽が家族の血に流れている彼女は、「母はいつも歌っていて、兄弟姉妹も歌うのが大好きでした。私がステージに立っているふりをするときは、いつも彼らをバックコーラスにしようとしたのですが、彼らは私に主役の座を譲ることに全く興味がありませんでした。」と語りました。
13歳のとき、彼女は『グランド・オール・オプリ』(Grand Ole Opry)(テネシー州ナッシュビルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組)に出演しました。
彼女はナッシュビルで開催されたカントリー・ミュージックのイベントでジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)に紹介されました。
同年、彼女は初のシングル『Puppy Love』をリリースし、1964年にテネシー州の高校を卒業した翌日、ソングライターとしてのキャリアをスタートさせるためにナッシュビルに移住しました。
ドリーの最初のヒットシングル『Dumb Blonde』は1966年にリリースされ、翌年にはデビューアルバム『Hello, I’m Dolly』をリリースしました。その後数年間、彼女は数々のヒット曲を手がけ、1973年には名曲『ジョリーン』(Jolene)も発表しました。

写真:2024年1月25日当時。
同年、ドリーは20世紀を代表するラブソングの1つである『オールウェイズ・ラヴ・ユー』(I Will Always Love You)を、師であり音楽パートナーでもあったポーター・ワゴナー(Porter Wagoner)への別れの歌として書きました。
この曲は、1992年にホイットニー・ヒューストン(Whitney Houston)が映画『ボディガード』(原題:The Bodyguard)のためにカバーしたことで大ヒットとなりました。ドリーは合計で全米カントリーチャート1位シングルを25曲獲得し、40枚以上のアルバムがカントリーチャートのトップ10入りを果たしました。
その後、ポップスに進出し、1983年にはケニー・ロジャース(Kenny Rogers)との共作『Islands in the Stream』(アイランド・イン・ザ・ストリーム)、1984年には『Tennessee Homesick Blues』などのヒット曲を生み出しました。
作詞作曲への愛について、ドリーはかつて「それは私の自己表現の方法であり、私のセラピーなんです。」と語ったことがあります。
LGBTQ+コミュニティーの熱心な支持者であったドリーは、結婚の平等性を公然と支持し、老若男女問わず多くのファンに愛されました。
2014年のグラストンベリー(Glastonbury)・フェスティバルでのパフォーマンスは、フェスティバルの歴史に残る伝説的なステージの1つとなりました。
18万人を超える大観衆を魅了し、ピラミッド・ステージを巨大な大合唱の場へと変えました。また、2022年にはロックンロールの殿堂(ロックンロール・ホール・オブ・フェイム:The Rock and Roll Hall of Fame)入りを果たし、キャリアにおけるもう1つのハイライトとなりました。
もっとも、彼女は謙遜して、その栄誉を「勝ち取った」わけではないと語りました。
彼女は亡くなる数ヶ月前、ナッシュビルにホテルと博物館を開設する計画や、新年に開幕予定のブロードウェイ・ミュージカル『Dolly: A True Original Musical』(ドリー:真のオリジナル・ミュージカル)の準備に奔走していました。
演技と音楽への情熱を胸に、彼女は1980年に映画界に進出し、リリー・トムリン(Lily Tomlin)とジェーン・フォンダ(Jane Fonda)と共演した『9時から5時まで』(原題:9 to 5 / Nine to Five)(1980年制作のアメリカのコメディー映画)で主演を務めました。
主題歌は、彼女にとって初の全米ビルボード・ホット100チャート1位獲得シングルとなりました。
その他の出演作には、バート・レイノルズ(Burt Reynolds)と共演した『テキサス1の赤いバラ』(原題:The Best Little Whorehouse in Texas)、シルベスター・スタローン(Sylvester Stallone)と共演した『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』(原題:Rhinestone)、ジュリア・ロバーツ(Julia Roberts)とサリー・フィールド(Sally Field)と共演した『マグノリアの花たち』(原題:Steel Magnolias)などがあります。
ドリーは慈善活動でも高く評価されており、1988年には児童の識字能力と教育の向上を目的とした非営利団体、ドリーウッド財団(The Dollywood Foundation)を設立しました。この財団を通じて、彼女が設立したイマジネーション・ライブラリーは3億冊以上の本を子供たちに寄贈しました。
2016年にテネシー州を襲った山火事の後には、家を失った家族のために900万ドル以上を集め、2024年にはハリケーン「ヘレン」(Helene)の被災者支援のために200万ドルを寄付しました。
彼女のチームからの声明は、彼女の素晴らしい功績を次のように要約しています。
「世界が目にするほど明るく輝くラインストーンのような人生を送ったドリーは、音楽や作詞作曲だけでなく、彼女の機知、温かさ、優しさによって、私たち全員を家族のように感じさせてくれたため、永遠にインスピレーションを与え続けるでしょう。」
「ドリー・パートンの遺産は、愛、思いやり、そして不屈の精神に満ちています。彼女は音楽を通して、そして世界をより良い場所にするという揺るぎない信念を通して、何世代にもわたるアーティストやファンにインスピレーションを与えてきました。彼女の歌はあらゆる年代の人々の心に響き、彼女の慈善活動は永続的な影響を与えるでしょう。」
Words © Tom Bryant / OK! Magazine
Photo © WENN.com
Photo © Judy Eddy / WENN.com
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