━━この作品(『アーマゲドン・タイム』(原題:Armageddon Time))はまた、映画に登場する家族の人生や、家庭内で起きる様々な出来事を社会的な現象として捉え、レーガン政権時代と結びつけようとしているという意見もありますが、その見解に対するあなたの考えはいかがですか?
この映画で表現されている亀裂は徐々に広がりを見せ、今日私たち社会の中で、政治的、社会的、人種的にも益々大きな分断を呼び込んでいます。そういった側面からもこの映画は現実社会の小宇宙として表現されているのではないかと思います。
そして私が出演している『メディア王 〜華麗なる一族〜』(原題:Succession)は、アメリカにおける後期資本主義と、その終末期の敗退について描いているわけですが、私たちはこの作品からその予兆と遺伝子情報(ゲノム)を見つけることができるのではないでしょうか?
━━ 実生活の父親、この場合はジェームズ・グレイ(James Gray)監督の父親をもとにした人物を演じているわけですが、演技する上で体験した具体的な課題があるとしたら、それは何でしょうか?
それは俳優として受け入れる全てのもの、さらに多くの人々が綴る文章と直感からできるだけ多くを吸収し、内面化することを要求される大きな責任を背負ってもいるわけです。 また俳優としての私には、様々かつ特定の事柄について微に入り細に入り、監督のジェームズに確認する必要のない自由を保有する必要もあります。でも、ジェームズもまた監督として私たちが自由な発想と演技をすることを望んでいました。
━━では、ここでご自身の生い立ちについて少しお話を伺います。あなたは子供の頃、ニューヨーク市であまり良くないとされていたジャマイカ地区で生まれ育ち、10歳のとき富裕層が住むニューヨーク郊外のサドバリー(Sudbury)に引っ越しましたが、その体験について少し触れていただけますか?
私は、レッドソックスのジャージとゴールドチェーンを身に着け、バスカットで街を歩く不良少年でした。初めてメルセデス・ベンツを見たのはサドバリーに引っ越しをしたときなんです。ですから私は成長の過程で、まるでカメレオンのようなサバイバル戦術を学んだわけです。サドバリーでの生活は、個人的にも創造性においても私にとって人生の基礎をなすものでした。私の心の中では、まるでそれは本物のアントン・チェーホフ(Anton Chekhov)の『桜の園』をモスクワで鑑賞するような体験でした。
━━最終的に俳優になろうと思ったきっかけは何ですか?
高校時代、私は演劇クラスを受講し、2人の英語教師と一緒にある劇に出演していたのですが、その際ロンドンへの校外学習に連れて行ってもらうチャンスを手にしたんです。そして国立劇場でイアン・ホルム(Ian Holm)が演じる『リア王』(原題:King Lear)を鑑賞したとき、私の人生は変わったんです。
━━裕福なエリアとして知られるサドバリーで生活している間、『メディア王 〜華麗なる一族〜』のような作品の中でケンダル・ロイ(Kendall Roy)を演じる自分の姿を想像することができたのでしょうか?
実はイェール大学(Yale University)で学んでいた頃にも、同じような経験をしているんです。その当時も私は、常に演劇俳優としての経験を積み重ねていたのですが、映画界で働いてみたいという思いがあったので、ちょっとした休暇ができたときや夏休みの間は、映画の撮影現場や、ロサンゼルスのスタジオや、制作会社で仕事をしたりしていました。ハリウッドの絢爛豪華な力は、私にとってまさに人生の舞台を変える鍵穴のようなものだったんです。
━━『メディア王 〜華麗なる一族〜』のクリエイターで作家のジェシー・アームストロング(Jesse Armstrong)と初めて会ったとき、あなたは“ねじれたロイ家の世界”についてどのような洞察をしたのでしょうか?
この作品に最初に取り掛かったとき、私たちはトラウマと特権意識、そしてその意識の中に存在する有毒な遺産について、しばしば話をしていました。『メディア王 〜華麗なる一族〜』の登場人物は皆、自らの遺産の重荷を背負い、重さに圧倒されて傷ついているんです。
ジェシーとエグゼクティブ・プロデューサーのアダム・マッケイ(Adam McKay)が展開するこのドラマは、トラウマ、ダメージ、そして大きい権力を持つ家族が崩壊し、激しい敵意や攻撃、さらに競争が起こす人間の毒性について多くを語っています。そしてこれらの基本的な現象は、今まさに地球規模で展開されているのではないでしょうか?
━━ブライアン・コックス(Brian Cox)が演じるローガン・ロイ(Logan Roy)と、あなたが演じるケンダルの間のダイナミクスについてはどのように思いますか?
ブライアン・コックスは、それをジャコビアン時代の『ヨークシャーの悲劇』、そして道徳劇として語っていますが、それはまさにその通りなのです。シェイクスピア風で、ギリシア語で、多くの比較がありましたが、このドラマで私が気に入っていることの1つは、セリフのトーンをピン留めするように一定化するのが非常に難しいことです。そして、それは通常の演劇のカテゴリの中には、なかなか存在しないものなんです。
━━ケンダルは3シーズンにわたって素晴らしい感情的な表現に挑戦していますが、彼が感じている絶望と孤独をどのように引き出そうとしたのでしょうか?
それらの感情を表現する唯一の方法は、自分の中にそうした感覚を住まわせ、それらを現実に具現化することができるかどうかを自問自答することです。俳優の規律は、時間の経過と共に文章の中から様々な感情を引き出すことを可能にする多様性を学び、自分の器として身に付けることなのです。
マイケル・ウォルフ(Michael Wolff)の本の中で、マードック(Murdoch)の子供であるラクラン(Lachlan)やジェームズ(James)は、「父親が理解していた唯一の言語は強さだった。」と語っていますが、それはまさに本質的で魅力的な言葉です。では、強さがあなたの母国語でない場合はどうなりますか?これはケンダルにも当てはまります。強さは父親の母国語なのかもしれない。ローガンは支配的、冷酷、野蛮、そして原始的な力の持ち主で、その力によって彼の子供たちは深く傷ついていくわけです。
━━多くの人たちの話によると、あなたは自分の仕事への献身のために、他社に対して非常に厳しく不公平だったと言われているようです。ケンダルを演じることにはかなりの負担を感じていたのでしょうか?
負担を感じないと言えば嘘になりますが、でも負担は同時に多くのものを与えてくれます。自分を見失うまでに演技に没頭するのは爽快ではあるものの、ケンダルの人生の中で光が消えたように感じたとき、自分自身も人生の光を受け入れることを許さないようにしようとした時期があったことは事実です。
周囲の仲間が現場で撮影を楽しんでいる間、私はケンダルが持つ欠陥に対する厳格な思いに自分自身を閉じ込めてしまったんです。そして『罪と罰』“Crime and Punishment”を読み返すごとにその孤独感が増し、その感情をそのまま家に持ち帰ってしまうんです。
でも、私は俳優として「生と死の賭け」を抱えて、それを自分の人生の一部として感じ、抱える必要があるんです。ノルウェーの作家、カール・オーヴェ・クナウスコード(Karl Ove Knausgaard)は『我が闘争』“My Struggle”の中で、「私は“ふり”や“真似事”をしないことで大きなリスクを冒した。」と述べています。人生は多くの“ふり”を繰り返す旅ではありますが、私はその中に致命的かつ深刻ではありながら、現実的な何かを埋め込む人生の旅を続けていきたいと考えています。
ジェレミー・ストロングによる上記のコメントは、9月3日にコロラド州で開催されたテルライド映画祭に登場した際『アーマゲドン・タイム』の宣伝インタビューの中で語られた言葉で、5月20日のカンヌ国際映画祭のワールドプレミアについてのコメントもありますが、その長さと内容の明確さのために一部編集されています。
Interview © Jan Janssen / Wenn
Photos © WENN.com
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