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スティーヴン・ホーキング:常に不可能を可能にしてきた世界的な宇宙学者の驚くべき人生を讃える
奇しくもアインシュタインの誕生日の3月14日に亡くなったスティーヴン・ホーキング博士。

news 2018.04.10

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奇しくもアインシュタインの誕生日の3月14日に亡くなった、偉大な理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士。
(写真:現地時間2015年2月8日、イギリス・ロンドンで開催された英国アカデミー賞(British Academy Film Awards : BAFTA)にジェーン・ワイルド(写真右)と一緒にレッドカーペットに登場したスティーヴン・ホーキング博士)


紛れもなくアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)以来最も偉大な理論物理学者で、数々の賞を授賞しているスティーヴン・ホーキング(Stephen Hawking)博士が、奇しくもアインシュタインの誕生日の3月14日に亡くなった。76歳だった。

ホーキング博士の発見は、生命そのものの全ての道理にかなった現代の論文を確証するものである。博士はNHS (国民保健サービス、英国の国営医療サービス事業)と福祉国家の信頼出来る支援者だったが、その生涯を通じて反戦運動家でもあった。また、ブラックユーモアの持ち主としても有名だった。彼はいくつかの宇宙の謎を解き明かした画期的な業績の一方、女性は「完全に謎だ」とよくジョークを飛ばしていた。

そして何よりも彼は、人々に影響を与える人間として輝きを放っていた。彼は半世紀以上も彼の平均余命を無視し、最も衰弱した状態で暮らしていたが、人生を大いに愛し、彼に与えられた全てのものに感謝した。体は諦めなければならなかったが、彼の精神は、私達が目がくらむような速度で飛び回っていた。彼の知識に対する渇望と生命構造を理解する為の緊急性は驚異的であった。

彼は「足元を見るのではなく、星を見上げて下さい。自分の目に見えるものを理解し、宇宙の存在を可能にしたものについて思い巡らしてみて下さい。好奇心を持って下さい」と人々に求めた。

ホーキング博士は、運動ニューロン疾患との勇敢かつ長い闘いの後、3月14日未明英・ケンブリッジ(Cambridge)の自宅で亡くなった。
彼の子供達、ルーシー(Lucy)、ロバート(Robert)、ティム(Tim)は、次の様な声明を発表した。
「私達は、愛する父親が今日亡くなった事を深く悲しんでいます。彼は偉大な科学者であり、その仕事と遺産が長年生き続けるであろう並外れた人物でした。彼の勇気と粘り強さは、その才気とユーモアと共に世界中の人々に影響を与えました。彼はかつて 『愛する人がいない宇宙なんて意味がない』と言いました。私達は、彼の事を永遠に寂しく思うことでしょう」

ホーキング博士の元妻のジェーン・ワイルド(Jane Wilde)の回想録を元にした2014年のヒット映画『博士と彼女のセオリー』(原題:The Theory Of Everything、イギリス映画、ジェームズ・マーシュ(James Marsh)監督)でホーキング博士を演じて、アカデミー賞主演男優賞を授賞したエディ・レッドメイン(Eddie Redmayne)は、「私が幸運にもお会いすることが出来た中で、本当に美しい心を持ち、驚異的な科学者であると同時に最も面白かった人を、私達は亡くしました。その比類ないご遺族の皆様にお悔やみ申し上げます」と述べた。

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、第二次世界大戦のさなか学究肌の両親の4人の子供の長男として誕生した。父親は、医学の道を志す事を薦めたが、若き日のホーキング博士の関心は空へと向けられていた。彼の母親はかつて「スティーヴンは、常に不思議さに驚嘆する強い感性を持っていて、星が彼を引き寄せた事が分かりました」と振り返った。

17歳の時、彼は名門のオックスフォード大学(Oxford University)に入学して、物理学の学位課程に席をおいた。彼は自分でも認めている通り、決して真面目な学生ではなかった。「私は、大学にはあまり行きませんでした。人生を謳歌するのに忙しかったからです」と彼はかつて話している。しかし、それでも彼は自然科学の第一級優等学位を授与されて卒業する事が出来た。

ダンスに熱心にいそしみ、大学のボート部では漕ぎ手を務めていたが、徐々に体の異変に気付き始めた。時々滑ったり、バランスを失ったり、言葉がつかえるようになったのである。1963年、彼がケンブリッジ大学大学院の宇宙学の博士課程1年生の時、父親に説得されて病院を訪れた。「彼らはベッドを傾けて、私の腕の筋肉サンプルを採取し、電極を私に刺して、X線不透過性の液体を私の脊椎に注射し、X線によってそれが上がり下がりするのを観察しました。その後、彼らは私の病名を教えてくれませんでした。ただ、私は多発性硬化症ではないが、典型的な症例だと知らされました」

彼は、運動ニューロン疾患と診断された。これは、筋肉を制御する神経が閉鎖している状態である。彼は余命2年と宣告された。逆説的に響くかもしれないが、余命宣告が彼の研究に拍車をかけた。博士課程が終了する前に人生が終わる可能性がある為、スティーヴンには無駄にする時間はなかった。不熱心な学生が突然熱心な学者に変身したのである。彼はかつて、「私の将来に暗雲が垂れ込めていましたが、驚いた事に、現在の生活を以前にも増して楽しんでいる事に気付きました。私の研究も進展し始めました」と語っている。

愛も彼が生きる希望を保ち続けるのに一役買ったようだ。診断の直前にスティーヴンは、大晦日のパーティーで仲間の学生のジェーン・ワイルドと出会い、翌年婚約し、更にその翌年結婚した。

当初 スティーヴンの病気は急速に進行した。まもなく彼は松葉杖に頼るようになり、1969年には車椅子生活を余儀なくされた。しかし彼は「私の障害について怒るのは時間の無駄です。私達は、人生と上手く付き合っていかなければなりません。私は、上手く付き合ってきたつもりです。あなたがいつも怒っていたり、文句ばかり言っていたら人々は、あなたの為に時間を使ってくれなくなってしまいます」とストイックに語っている。

幸運にも彼の病気の進行が遅くなり始めた。しかし介護者として、また主婦としての妻の負担が顕在化し始める。彼の処女作『ホーキング、宇宙を語る : ビッグバンからブラックホールまで』(A Brief History Of Time)の成功の後、ジェーンは3人の子供を養育し、今や重度障害者となった夫の通訳者を務める為に、自分の仕事で成功を収めるという夢を諦めざるを得なかった。この本の大成功とそれに伴うメディアからの注目、そして介護者の絶え間ない存在が相まって、夫婦の関係は、控え目に言っても緊張が高まっていた。30年間を共に過ごした後、彼らの結婚生活は崩壊し、スティーヴンは、彼の看護士の一人のエレイン・メイソン(Elaine Mason)との再婚を発表した。

博士は、既に尊敬され、成功した学者であったが、彼の著作によって予期せぬ有名人となり、更なる出版の機会とその著作を通して彼の理論を講義する為のプラットフォームを提供した。彼は、「『ホーキング、宇宙を語る : ビッグバンからブラックホールまで』がベストセラーになることを全く予想していませんでした。私が最初に宇宙についての大衆向けの本を執筆する着想を得たのは、1982年の事でした。執筆のきっかけは、一つには娘の学費を支払う為にお金を稼ぐ事でした」と告白している。

宇宙と時間の謎を解明しようとした彼の献身は、多くの賞と賞賛とファンをもたらした。運動ニューロン疾患と診断された時、このかつてなく楽観的な科学者は、かつて「私は動くことも出来ませんし、コンピューターを通じて話さなければなりませんが、私の心の中では、私は自由です」と語った。


Feature © Lucie Barat / OK! Magazine
Picture © Toby Hancock / Express Syndication


END.
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