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ライオネル・リッチー:70歳を迎え、いまだとどまることを知らないレジェンドのキャリアに迫る(前編)
「僕は恋愛の良いも悪いも、酸いも甘いも経験してきた男だよ…」と70 年間の様々な経験を振り返るライオネル。

limited 2019.07.30

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「僕は恋愛の良いも悪いも、酸いも甘いも経験してきた男だよ…」と70 年間の様々な経験を振り返るライオネル・リッチー。


ライオネル・リッチー(Lionel Richie)ほど、70 年間で様々な経験をした人はごくわずかだろう。マイルストーンとなる誕生日を祝った彼だが、4つのグラミー賞、オスカー賞を1つ、そしてゴールデングローブ賞を1つ、歌手としての功績として受賞したほか、3人の子供を溺愛する父親でもある。そんな彼の勢いは衰えるばかりか、ここ2年に渡って、アメリカのアイドルオーディション番組『アメリカン・アイドル』(原題:American Idol)で若い世代の才能発掘を行っている。

モータウン界のレジェンドの全ては、ライオネル・シニア(Lionel Sr)とアルベルタ・フォスター(Alberta Foster)の間で彼が生まれ育ったアラバマ州タスキ―ギから始まった。タスキ―ギ大学(Tuskegee University)で学ぶ間、彼は司祭になることも考えていたが、音楽、そして女性への情熱を見つけた彼!

彼が加入していたカレッジバンド、ザ・ミスティクス(The Mystics)を思い出し、ライオネルはこう説明する。
「僕はバスケットボール選手になるには背が低すぎたし、フットボールをやるには瘠せ過ぎていた、それに陸上をやるには足が遅すぎた。唯一できたスポーツはテニスだった。でもテニスコートの周りに女の子なんていやしない。それである日ステージに立ったんだ。最前列で女の子が叫んでいたよ。」

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ザ・ミスティクスの解散後、ライオネルと彼の友人のトーマス・マクラリー(Thomas McClary)、そしてウィリアム・キング(William King)はザ・ジェイズ(The Jays)のオリジナルメンバーであるアンドレ・カラハン(Andre Callahan)やマイケル・ギルバート(Michael Gilbert)、ミラン・ウィリアムズ(Milan Williams)と協力した。6人は目隠しで辞書からバンド名を選び、コモドアーズ(The Commodores)が誕生したのだ!

バンドのラインナップは長年にわたって変化したが、“まだ知られていない人目をひくギグ”のオーディションを受けた後、彼らはジャクソン5(The Jackson 5)のサポートアクトという誰もが憧れたスロットを手にし、その後モータウンレコードと契約した。

スターダムに上り詰めたことに対し「僕の黄金時代は、バンドに入ったときだったね。それまでは僕はクールじゃなかった。それからコモドアーズに入って、僕の人生の中でも最も楽しいときが訪れたのさ。僕の両親が良くないと言っていたことだらけだったけれど、どの瞬間も楽しんだよ。」とライオネルは話す。

『イージー』(原題:Easy)や『永遠の人に捧げる歌』(原題:Three Times A Lady)を含むヒット曲はバンドに世界的称賛をもたらした。しかし、ライオネルのソングライターとしての才能は、さらなる可能性に溢れるものだった。

ライオネルが1981年に自身で作曲したダイアナ・ロス(Diana Ross)とのデュエット曲『エンドレス・ラブ』(原題:Endless Love)での成功は、ソロしてのキャリアを追求するきっかけとなり、翌年彼はバンドを脱退。その後まもなくしてソロアルバムをリリースする。しかしそれは決して楽な決断ではなかった。

「一人になることは本当に厳しいものだった。」と話すライオネル。
「コモドアーズと絆を強めて、まるで家族のようだったんだ。僕が加わった唯一のバンドさ。でも『エンドレス・ラブ』と『トゥルーリー』(原題:Truly)以降、次のレベルがやって来ることは明らかだったんだ。」

FEATURE BY KATIE LANGFORD FOSTER
PHOTO © Johnny Louis / WENN.com
PHOTO © WENN.com


後編へ続く・・・。
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