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【追悼】ランウェイの帝王カール・ラガーフェルド:レジェンド、そしてファッションアイコンとしての時代 Vol.2
究極のルネサンスを生きたファッション界の帝王、ラガーフェルドの人生の軌跡を振り返る。

limited 2019.03.16

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現地時間2019年2月19日にパリで死去した究極のルネサンスを生きたファッション界の帝王、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)の人生の軌跡を振り返る。


ベートーヴェン(Beethoven)のように、彼のファッションの交響曲は時の試練に耐え続けており、私たちは、独自のスタイルかつ奇抜でエキセントリックな彼の祭壇で崇拝し続けている。ラガーフェルドは50年代にパリのオートクチュールという稀有な世界でその名を最初に轟かせたものの、デザインに関しては全くエリートではなかった。
彼は大衆市場の衣料品製造業者エイチ・アンド・エム(H&M)や、トレンディなディーゼル(Diesel)のイタリア人デザイナー、レンツォ・ロッソ(Renzo Rosso)と協力し、ラガーフェルド・ギャラリー・バイ・ディーゼル(Lagerfeld Gallery by Diesel)のデニムコレクションでは大成功を収めている。

カールの崇拝者たち

何年もの間、彼はお決まりの白いポニーテール(彼の本当の髪の毛は黄色がかっていたため、彼は80代に入ってもベビーパウダーで飾り続けていた)と、ハイカラ―の糊のきいた白シャツ(彼は1000以上のコレクションを保持し、それらは全てヒルディッチ&キーのものだった)、サングラス、フィンガーレスの手袋、ブラックのスーツにブラックのスキニージーンズと革のブーツで私たちの意識に刻まれた。
ドイツからやって来たファッションの第一人者にピッタリの格好で聖職者であると言っても許されるようなものだが、ラガーフェルドは「聖職をはく奪されたもの」と皮肉を言っている。

そしてラガーフェルドはこの大祭司のスタイルで、厳格かつナンセンスは通じない彼のやり方に沿うような、高尚で謙虚、そして痛烈な発言を頻繁にすることを好んだ。

「私の母はいつも単刀直入で、無意味なことや無関係なことで時間を無駄にすることはなかった。」とラガーフェルドは説明する。
「母は私に、率直になることの素晴らしさや、無駄な感情や推測で苦しまないようにと教えた。だから私は気を遣う束縛や、無意味な汎用性によって満たされるなんてことは信じていない。くだらないおしゃべりの壁の後ろに隠れているよりも、思ったことを口にする方が好きだ。」

カール・オットー・ラガーフェルド(Karl Otto Lagerfeldt)(後に彼は、シンプルさのために最後の“t”を落としている)は、(洗礼の記録によると)1933年にドイツのハンブルク(Hamburg)で誕生した。ただし、後の彼は本当の生まれ年は1935年だと発言している。
彼の父親はカーネーション・ミルク(Carnation milk)に勤務しており、ドイツで粉ミルクを製造し富を築いた。このことで、若かりしラガーフェルドは給仕や乳母のいる大豪邸で生活をし、驚くほど“甘やかされた”子供となった。

彼はほとんどの時間を孤独に過ごした泡のような存在で、8歳の頃には、戦争と平和(War & Peace)やブッデンブローク家の人々 (Buddenbrooks)のような古典文学を読み、既にその才能を発揮していた。6歳までには母国語のドイツ語の他にフランス語や英語を流暢に話し、両親にプライベートの語学教師をつけるように言っていた。

「子供の頃に抱えた問題は、死ぬほど退屈していたということだ。私は成長した大人になりたかった。私の子供時代には終わりがなく、8歳から18歳までが100年にように感じられた。今日の親は子供の背中を支え過ぎている。過保護だ。それではいけない。子供は部屋の隅にいれば良い。私はいつも隅にいて、読書をしたりスケッチをしたりしていた。それでもその場にいたかった。私がしたいことはそれだけだった。」

ラガーフェルドは若いプリンスかモーツアルト(Mozart)のように暮らした。“非常に活発なイマジネーション”の中でスケッチをしたり読書をしたりして毎日を過ごした、先天的に知的な贈り物を与えられた男の子だった。

「子供の頃は、ファッションで生計が立てられるなんて知らなかった。何のプランもなかったが、予期せぬ事態への準備は常にできていた。全てが本当に面白い。インテリアデザインに興味がある。ファッションにも興味がある。それに本にも興味がある。」

またラガーフェルドは「子供の時は他の子供と遊んだことがなかった。スケッチと読書以外のことをしなかったからね。初めは漫画家になりたいと思っていたから、スケッチが大好きだった。両親の家の屋根裏で1900年代の有名な漫画雑誌を見つけて、その漫画はとてもとても美しく描かれたものだった。」とも話している。

彼はファッション業界での成功を心に決めた、希望に溢れたティーンエイジャーとしてパリに足を踏み入れた。彼が最初に見習いをしたのが、彼の才能が開花したピエール・バルマン(Pierre Balmain)だった。そしてその後すぐに、ジャン・パトゥ(Jean Patou)の本格的なデザイナーとして指名された。60年代には、クロエ(Chloé)と頻繁に仕事をしていた引っ張りだこのフリーランスデザイナーとして名を馳せ、70年代に入って、ついにファッションハウスのヘッドデザイナーとなる。

INTERVIEW © WENN
PHOTO © Lia Toby / WENN.com


Vol.3へ続く・・・。
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